日本旅行業協会(JATA)主催「2005年度ホームステイツアー体験記」コンテスト・生徒部門(中高生対象)・優秀賞


「オーストリアは第二の故郷」
       附属静岡中学一年 長田頼河
 
 学校から帰るとマコーレン家からの4通目の手紙が届いていた。中にはホームステイ中に家族が撮ってくれた写真が入っていて、それを見たら、ステイ中に何度も聞かれた「アーユーOK?」っていう優しい声が聞こえた。
 2005年7月23日〜8月12日、僕はオーストラリアのサウスオーストラリア州・アデレードの近くのウィランガハイスクール(中高一貫校)に短期留学した。
 僕が参加したのは日本青少年海外研修研究会が企画しているFEVプロガラムのオーストラリアコースだった。小学校の時にこのプログラムを知って行きたいと思ったけれど、中学一年以上、英検3級取得者が望ましい等いろいろな条件が書いてあった。だから僕は小学校六年生の時に本当に必死になって英語を勉強して英検3級をとった。
 7月23日・出発の日は千葉県を震源地とする地震のせいで飛行機の出発は1時間半も遅れたけれど、シドニー、アデレード、そしてウィランガの町へと移動し、ウィランガハイスクールに24日の17時に無事に着いた時、旅行が中止にならなくて良かったと感謝した。 
 学校には、僕のホスト(マコーレンさん)の父母は何故か来ていなくて、エリザベス先生とホストスチューデントのキャンプベル・マコーレン14歳が来てくれていた。キャンプベルはロングヘアーで背が高くて中世の王子様みたいな顔をしていたので僕は驚いた。
 その晩はマコーレン家に行って、キャンプベルの兄のアシュトン16歳と妹のエバンジェリン10歳とエリザベス先生で夕食を食べたが、一人っ子の僕は一度に四人兄弟になったみたいでうれしくてたまらなかった。僕の為に16畳もあるすごく広い部屋を用意してくれてあったのでゆったりぐっすり眠る事が出来た。
 後になって、キャンプベルのお母さんは助産婦さんで、お父さんはワイナリーと採石場で働いていて、僕が着いたその日はたまたま仕事で出かけていたとわかった。ホームステイを受け入れるからといって、特別な生活をしないで気軽に受け入れてくれていることがわかって、何でもしっかり構えて準備万端にしてしまう日本とは違うな、こういう自然体のスタイルがいいなぁと僕は思った。
 僕のステイ先からウィランガハイスクールまでは徒歩で10分くらいだった。学校は隣にあるゴルフ場の半分くらいのすごい広さで、校内に牧場や果樹園もあった。学校の授業は先生の板書や教科書やノートですすめる日本型の授業と違って全てが体験授業だった。郷土料理作り、銀板写真作り、アウトドアでパンを焼く方法、アボリジニの絵の描き方、数学の授業も。失敗もあったけれどみんな体を通して学ぶ事が出来た。日本語の授業にはALTの見習いみたいな立場で参加した。キャンプベルも他のみんなも日本語が大好きで、来年日本に旅行に行くからといって、とても一生懸命日本語を覚えようとしていた。
 学校へはキャンプベルが用意してくれたパンを持って出かけた。日本のような給食はなくて、学校ではおいしいスープや飲み物や色々な料理を安い値段で買うことが出来た。中でもチキンスープの味は格別だった。
 学校では授業以外に、エクスカーションとして、日本から行った仲間とそのホストスチューデントで、動物園に行ってコアラやカンガルーに直接触れたり、一番美しい港のビクトリアーハーバーに出かけたりした。
 学校から帰ると、マコーレン家の犬のオーリーと遊んだり、キャンプベルとテレビゲームをしたり、家族と車でアデレードまで出かけたりした。牧場主をしているおばあちゃんの家に行って最高のステーキをごちそうになった日もあった。日本で練習していった卵焼きと素麺を僕が作った日はすごく喜んで食べてくれた。キャンプベルのサッカーの練習を見に行った時は、オーストラリアの夜空が星でいっぱいだったのでとても感動した。そして、休みの日にはお父さんの働く採石場の仕事をさせてもらったり、アーモンドブラッサムフェスティバルへ行ったり、映画を見に行ったりした。本当に毎日が楽しくて楽しくて3週間はあっという間に過ぎてしまった。
 8月11日ついに別れの日が来た。みんな別れが辛くて泣いた。僕のホスト先の妹のエバンジェリンもお母さんも泣いていた。僕はキャンプベルに「必ずまた来るよ!」と言って笑顔で別れた。(涙は辛すぎて出なかった。)
 日本に戻って僕はオーストラリアで過ごした毎日をただの思い出にはしたくないと思った。だからEメールや手紙を送り、滞在記を僕のホームページ・ガイラワールドにのせた。九月に入りマコーレン家から初めての手紙が届いた。僕の手紙をとても喜んでくれていた。僕もまた返事を書いた。こうしてマコーレン家と僕の家族との本当の交流が始まり、オーストラリアは僕にとって第二の故郷になった。

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