37年間ありがとう … 運動の継続を
 

 前支部長  増田 勇
 

 1964年、静岡郵便局で仕事に就いた。10年後、静岡南郵便局が開局した。開局にともなって、南郵便局に転勤になった。この転勤で、郵政省と全逓の協約の中で、組合がもっとも発言力のある「要員協議」が行なわれた。しかしこの協議はずいぶん荒っぽくて、「国鉄の線路の南側に住んでいる人は南郵便局に移ってもらう」というしろものだった。しかし異をとなえる人は少なかった。静岡南局開局の日が、静岡に住む人にとっては誰もが知っている「七夕豪雨」の日だった。今、七夕豪雨とのかかわりで、その人のおおかたの年令を言い当てることができる。

 静岡局と静岡南局とあわせて37年間仕事をした。最近の全逓新聞に載った私の詩があるので再掲する。

 

ゆっくりがいいか

増田 勇

郵便の仕事を三十七年やった。
ほぼ同じくらい労働運動をやった。
そのどちらも、
五十八歳の今、降りることにした。
人と人をつなぐ郵便の仕事は好きだったし、
労働運動はやりがいがあった。
しかし、
鋼鉄の肉体が私にないのはあたりまえだし、
労働連動は様変りしてしまった。
妻に話すと、
「とめはしないよ」
と言う。
残りの命がどのくらいあるか?
命を長引かせるためにゆっくり歩くか。
短い命を燃焼させるか。
今、
そんなことを私は考えている。
 

 静岡郵便局で一時郵便窓口担務についたが、あとは全部、宿りのある事務だった。不規則な勤務を30数年間やってきたのである。そして今、私は郵便局の仕事から退職する事になった。前にも書いたが、一日一日は長かったし、いやなこともあった。しかし「37年」として一日一日をたばねてしまうと、いやだったことはみんな忘れて、楽しかったことだけが残されているのである。短い37年間だった。

 仕事とほぼ同じ期間、全逓の労働運動をやった。青年部運動から始め、何らかの役職につかなかった期間はない。労働運動も、仕事も同じで、その時その時は苦しかったが今思い返せば楽しい思い出ばかりだ。自分の妻の選挙をかかえた静岡県議選と静岡市議選の期間が一番きつかった。あの時は、同じ組合員からもずいぶんひどい扱いを受けた。よく生きつづけたと思う。

 最後の10年は支部長として運動した。頼りない支部長だったと思うが、みんなが支えてくれた。今、任期途中でやめる。他にいい方法がなかった。4月にG君が強制配転になり、9月にS君が強制配転された。私も辞める。みなさんには迷惑をかける。どうか引き続いて運動を継続してほしい。

 急激な役員の交替になってしまった。一部役員体制が代理という形になっている。次の支部大会で確定される。組合の日常業務が完全には軌道に乗り切れていないこともあるが、今まで以上の強力な支部になることも間もなくだ。37年間を思い起こせば際限がない。そして思い出にひたっている場合でもない。

 4月30日が私の退職日になる予定だ。この日に私の37年間の締めくくりとしての話を、「講演会」という形でやりたいと考えている。その時ゆっくり話したい。また質問も受けるつもりだ。郵便局がこれからどうなるかも、その時に話したい。

 S君の人事院公平審は、S君の配転の不当性があまりにも明確に証明されたということで、全国で行われている郵政人事院公平審でも特筆すべきことだ。人事院の最終結論が出るまでにはしばらく時間がかかる。私たちが配転の不当性がはっきりした、と言っても、結論は人事院が出す。人事院は行政機関で郵政官僚と同類の官僚組織だ。私たちの考えるようにはいかない場合もある。

 郵政公社は来年4月だ。静岡南支部で、公社化にむけて充分な取り組みがされていない。このことは反省するが、では充分な取り組みは何かと言うと、これは見解のわかれるところだ。充分な取り組みが、郵政当局と一体のセミナーを開催して、公社化法案を研究することではない。公社化、民営化が、労働者の労働条件にどうした変化をもたらすか、そしてその変化に労働組合がどう対応できるのか。民営化がおそろしいわけではない。企業経営はすべて民間だ。今は郵便局の事業も、ほとんど民間手法なのである。

 「民間宅配便と競争して勝ちぬこう」というスローガンが、労働組合として正しいスローガンなのか。これらのことも、最後の講演会で話したいと思っている。

 私の37年が終わった。私の人生の大部分だったのだ。去年、退職して一年足らずで亡くなった方の例もある。とりあえず酒の量を減らそうと思う。いろいろお世話になりました。ありがとうございました。