昔のこと(2)

人には誰にも「忘れ得ぬ事件」というものがあるといわれます。
前回書いた中年女性の破産事件は、私にとってまさに忘れ得ぬ事件でした。勿論私は既に多数の 破産事件を手がけており、さらに劣悪な境遇の人と会ったこともありました。「何度自殺しよう としたことか」と打ち明けられたこともありました。
ですから彼女の事件そのものが、私の 忘れ得ぬ事件となったものではありません。彼女が私の前に現れた「時期」が、非常に大きな インパクトを私に与えたのでした。
半分諦めていた社会復帰が可能となり、私は大きな喜びの中におり精神は高揚しておりました。反面 バブル崩壊に伴う破産事件の急増という社会事象があり、その救済活動に「司法書士職」として参加 したいという強い願望がありました。そしてその参加こそが私にとって社会復帰と同義語でした。
それから3日ほどして、若い人たちの集まりである団体の会議があると聞かされました。私も その団体に所属しておりましたが、会議に出るのはほぼ3年ぶりでした。 会議のメンバーは7・8名、半分以上知らない人たちでした。
会議の終盤になり、議題はクレサラ問題に移りました。「半年ほどかけて、破産法等クレサラの勉強をする」 というものでした。
それまで挨拶だけして一切の発言をしなかった私はいきなり強い口調で「あなた達が愚図愚図勉強している うちに人が死ぬぞ」と言い放ちました。
考えてみれば、私の発言は全く言いがかりとしかいいようがなく、そこに出席していた人たちには迷惑 この上ないものであったろうと思います。
私を知らない人にとっては、どこの誰かもわからない人間が、いきなり出席してこのようなことを言う。 また私を知っている人間にとっても、3年の間しっかりと事業計画を立て、地道に努力してきたとこ ろに、その間何もやってこなかった人間が何を言うかという気持ちだったでしょう。
また全国的にみても 会あるいは団体を挙げて支援活動をしているところはほとんどなく、静岡だけが遅れているという わけではなかったからです。
しかし私には、数日前会った中年女性が、財布を逆さまにされ、その中にあった全財産414円を 強引に取られ、なお且つ足を蹴られ、困惑し怯えきった顔が脳裏に刻まれており、今はのんびりと勉強 などしている時ではなく、まさに非常事態という認識しかありませんでした。
気まずい雰囲気で会議を後にした私は、それでも意気軒昂でした。気心の知れた若い司法書士に連絡を取り、「破産の研修会を 開きたいと思うが、会場の手配等してくれないか」と頼みました。
私には会に諮ってとか誰かの意見を聞いてとかいう発想が全く浮かばず、プライベートな研修会を 県下の司法書士全会員に案内する、しかも早急にするというということを直ちに決め、賛同者を集 いました。
私の勝手な行為に、人数は少数ではありましたが、積極的に参加してくれた人がいました。しかも意外 なことに、私が顔も知らない人、あるいは顔は知っていても話もしたことがない人が含まれておりました。 そして彼らは皆若者であったのです。
彼らの参加は、私を勇気づけ、私の内部で発散できずにいた種々 雑多な想いが、ようやく実現できる場と人に出会ったという予感めいたものを感じさせました。

平成4年7月研修会の案内とともに、次の文章を同封し県下全会員に送付し、静岡は第一歩を踏み出したのでした。


研 修 会 趣 旨
講師 芝  豊

 昨今、新聞等で消費者破産の増加がニュースとして報じられ、さらにはテレビの深夜番組で自己破産申し立てのノウハウとでもいうべき放送を流し、ついにはマンガで「やさしく」その手続きの概要について書かれている書物まで出版されるという世はまさに「破産ブーム」ともいうべき異常な事態が社会現象となっている。
司法書士は、消費者破産についてアレルギー症状をおこすものが少なくない。また地元の司法書士会でも日司連でも、ほとんど何の対応もしてはおらず、また研修会も開催してはいない。
 アレルギー症状を呈する重要な要因として、果たして債務者は本当に被害者か、というものがある。お金を借りたら返すのがあたりまえではないか。自分の買いたい服を買い、華やかな生活をし、さんざん楽しい思いをしておきながら、借金で首がまわらなくなったら、破産を申し立てる。なぜそんな身勝手な人間を救済しなければならないのか。
 このような見解は我々司法書士だけではなく弁護士会でも問題になったことがあるし、ある意味では一般市民の感情とも合致するところであろう。
 しかし、この論においては、無分別にカードの発行をしつづける会社の責任は一切視野に入っておらず、苛酷な営利第一主義を貫き、莫大に利益を享受している現実を見落としている。
 個々の多重債務者を仔細に観察すれば、経済的困窮に陥る過程には、同情すべき点も少なくない。普通の人間が(例えそこに安易性・過誤がみうけられるにしても)何かの些細なきっかけが原因で、自分の収入では、どうにもならない生活状況に陥ってしまう。その些細なきっかけは、病気・事故のこともあるだろうし、保証人の責任を追及されたことでもあるだろうし、例えばそれが友人と同じ服を着たいという願望であったとしても、それを責め、人間失格者としての烙印を誰が押せるというのだろうか。
多重債務者に、何ら法的保護も与えず放置して、最悪の場合には一家離散、さらには無理心中という悲惨な状況に追い込むのと、例え債務者自らに責任があることとはいえ、もう一度更正のチャンスを与える手続きをとることと比較較量すれば、法律家が選ぶ途はおのずと明らかである。
 司法書士は「街の法律家」を自認している。破産の問題が法律の問題であることは、多重債務者でも認識しているはずである。それでいながら司法書士のもとに破産手続きの依頼が少ないのは何を物語るのか。さらには依頼を受けても「忙しい」とか「破産はやりません」とかの理由をつけて平然と見捨ててしまう司法書士がいる現実は何を物語っているのか。国民は我々を本当に法律家として認知してくれているのだろうか。
 国民の困窮を目の当たりにして傍観する集団は断じて法律家集団ではない。サラ金二法が成立して取立行為を厳しく制限しているにもかかわらず、苛酷な取立によって債務者が疲弊しきっているのに、その違法性を指摘できない集団は断じて法律家集団ではない。

 この研修会は第一歩である。しかし急がなくてはならない。破産は資本主義の病理の問題であり、債務者の救済の問題であり、そして我々司法書士の問題である。
破産という極限状態に追い込まれた人間が、我々司法書士の真摯な対応で、種々の困難から解放され、再び生きる意欲をわきたたせる姿を見ることのできる、法律家としての喜びを、この研修会に参加したすべての人に味わってほしいと思う。

この項続く
昔のこと

「昔々のこと」で書いたように、一人で「サラ金問題」に関与した私は、しこしこと申立書 を書いたり相談にのったりしてきました。
この問題に対処するには、救済する人間の「数」が必要であるのは自明のことであったので、若い司法書士に「一緒にやらないか」と何度も 誘ったのですが、「破産はどうも・・」という返事ばかりでだれ一人参加してくれる人はいませんでした。 また社会的には法整備も進み、いわゆる「サラ金二法」が昭和58年に成立し、貸金業者に種々の規制がかけられ、マスコミ 及び法律家団体においても、「一件落着」の雰囲気でした。しかし地方都市で「しこしこ」とこの問題に 携わっている私の感想は、何も変わらないというものでした。
確かに規正法21条の取立行為の規制等の文言は、今までサラ金側がさんざん行ってきた違法な 取立行為を列挙し、それら行為を禁止するものとなっていましたが、必ずしも遵守されておらず、 また何よりも多重債務者自身が、法が制定され、そのような行為が禁止されたこと自体を知らない ため、我々の耳に普通では届かず、破産等の法的処理を取る段になり、はじめて知るというということで 後手後手となっていたためと思われます。
昭和60年代には、後にバブル景気といわれる長期の景気拡大に入り、世間は消費ムード 一色となり、また銀行等も消費者を対象とした融資に積極的に乗り出したため、私の事務所にも 多重債務に関する相談等は2ケ月に一度程度と減少していました。
バブル景気は平成2年には崩壊するのですが、時期を同じくして私の身体に変調が現れ、 外出が困難となってきました。勿論ここは「闘病日記」ではないので、以下は省略しますが、 平成4年5月退院し現場に復帰するまで、会議等外出を必要とする行為は一切出来ない日々が続きました。 その間も事務所あるいは入院先で、多重債務の相談にはのっていましたが、社会全体はバブル 景気の崩壊に伴う生活困窮者が増大し、多数の救済運動に携わる人を必要としていました。
退院から1週間ほどが経過し、(退院の当日から事務所にでていました)事務所の電話にでると 中年の女性の声で「破産の相談なんですが、先生のところでやっていただけますでしょうか」という ものでした。私は概略を電話で尋ね、必要書類を相手方に伝え、翌日の午後2時に事務所で面談 することとしました。
事務所に復帰したばかりの私は、異常とも思えるほど精神が高揚していました。
長い闘病生活は 人間にいろいろなことを考えさせます。個としての自分、家庭人としての自分、社会的存在とし ての自分、その中で前2者は辛うじて維持できたとしても、社会的存在としての自分の表現方法は 皆目分からなかったからです。ところが幸いにして全く普通の状態で社会復帰出来た私は、2年 余にわたって思うように活動できなかった部分を取り戻す情熱にとりつかれていました。
長い間の飢餓感を満足させる方法、それが私にとってクレサラ問題への集団関与という課題と なったのかも知れません。
ともかくも翌日件の女性との面談時間となり、事務所に帰ると、既に女性は事務所に来ており、 小柄で品のよい中年の女性でした。一通り経過を聞き、私の事務所に来たのはは誰かの紹介です かと聞いたところ、市役所の「何でも相談」に行き、司法書士会員の名簿を渡されて、ここに来 たとの返事でした。
彼女の現在住んでいるアパートと私の事務所とは、まあ近いといっても良いほどの距離でしたので、 一番最初に私の事務所に来るのは自然でした。ところが実際は既に5カ所目ということでした。
彼女の住んでいるアパート(4畳半一間に勝手場が付いているだけ)の すぐそばを東海道線の電車が走り、その線路を越せば海であることがわかっていました。
彼女との雑談の中、今まで学校の教員として過ごし、社会の荒波でもまれたこともなく童女が そのまま年を取ってしまったような彼女が、あまりの困窮と取立の過酷さ(彼女は大手雑貨店に 勤務しており、英文の翻訳が出来ることから輸入雑貨の品目の翻訳をしていたが、その職場に大手 信販会社の社員が取立に訪れ財布の中にあった当日1日分の食事代414円を財布を逆さにして 強引に取り上げ且つ足をけ飛ばされるという暴行を受けた)から何度線路に横たわろうかと 思ったか知れないと聞かされ、私の心中は穏やかでありませんでした。
いや、実際は「穏やかではない」どころではなく、私の顔が真っ赤に紅潮していくのがはっきり と自覚できました。
この項続く

昔々のこと

私の職業は司法書士ですが、この問題に関与してもう20年近くになります。
今日は私が一番最初にこの問題に関与した頃の話をしてみようと思います。 私は司法書士を開業するにあたって、司法書士業務の経験が全くなく、登記を申請するのと 裁判所関係の仕事をするのは私の意識の中では全く同一のものでした。
当時既にサラ金問題が大きな社会問題となっているということは、まだマスコミでは大きく取り上げられては いませんでしたが、同じ頃開業した友人の弁護士との話の中で何回も出ておりましたから、知っており ました。
その件の友人の弁護士との会話の中で、「司法書士さんは破産はやらないの」の聞かれたことがあります。 新人司法書士の私は、所属する業界の情報に疎く「さあ、どうなんですかね」と答えるのが精一杯でした。
実はこの「精一杯」は私が業界の情報に疎いばかりが理由ではありません。私にとってはその短い言葉の中に 普段の弁護士の言動から「司法書士が街の法律家と自己定義しておきながら、この問題に関心を示さず救済にも立ち 上がらないというのは自己矛盾ではないか、さらには登記という経済効率の良い仕事ばかりしていて、 大きな社会問題に目を向けないのは、職能の怠慢であり期待される職能への裏切り行為ではないか」 と述べていることが、明白であったからです。
そして勿論私自身が、まだ1件の債務整理もしたことがないということも、その「精一杯の返答」に当 然現れています。
この会話は、二人で酒を飲んでいるときのものです。それから20年たった今でも鮮明にその時の状況 を覚えているというのは、私にとって
「司法書士さんは破産をやらないの」
「さあ、どうなんですかね」
というありふれた会話が、この問題に取り組む大きな契機となったことは間違いありませんし、ひょいと 頭を持ち上げる私の負けず嫌い(但し普段は全くこのような要素はありません)と相まって 20年という時間を過ごさせる原因となっただろうと思われます。
意識するというのは面白いもので、自分がサラ金問題を意識しだして、1ケ月もたたない頃、債務整理の 相談がきました。債務整理といっても司法書士が任意整理をやるわけではありませんから、選択肢は 破産、調停ということになりますが、相談者は会社を経営しており、主業務は融資斡旋業というこ とでした。会社は既に不渡りを出しており倒産、手形が街金等に回っており、社長個人が裏書保証を してあるとのことでした。
経験の浅い私は融資斡旋業などという仕事があること自体知らず、仕事の内容を聞いたところ、ある大手 の信販会社に融資を申し込み融資されたら融資金額の一定割合を斡旋手数料としてもらうとのことでした。
これは普通に考えてもおかしな話で、融資を受けられる人であるのなら、そのような 怪しげな職業の人に頼まなくても融資は出るはずですし、そもそもその融資斡旋業者の受け取る金額が 半端な額ではありませんでした。しかし蛇の道は蛇で、この債務者の周りに、胡散臭い人間が多数集 まってきて、債務者は紙屑同然の手形を割引きを強要されたりして、たちまちのうちに破綻してしま いました。
債務者は無価値のものとはいえ、割り引いた手形をもっておりましたし、また担保だらけですが、 一応不動産も所有しており、明らかに管財人事件ですので、私としては破産の申立をして終わり ということで、大して苦労したという想いはありませんでした。申立書などは書式にならって 書いた覚えがあり、当時はワープロがありませんでしたので、和文タイプを打ったことも 覚えています。確かに債権者らしき人物から「おたく・・・の居所を知らないか」という電話 が2.3本ありましたが、債務者は怯えており居所を転々として私も知りませんでした(連絡は 債務者より1日2回電話がある)ので、「わからない」と答えるだけでした。
私にとっての初体験の破産申立は、以上のようなものでしたが、この体験は現在の消費者破産とは 趣旨の相違するものでした。
ただ私にとって、曲がりなりにも業務として破産の申立の体験をしたということは大きな出来事で、 現在から考えるとたいした数ではないのですが、以後継続して破産の申立をするようになりました。 当時はまだ貸金業規正法が施行される前でしたので、貸金業者の取立もすさまじく、また申立 に関与した司法書士への攻撃も「非弁」の連呼に始まり、罵詈雑言を浴びせて来る業者もあり 決して楽なものではありませんでしたが、私は「ギャーギャー」いわれながら、「こんな奴らに負け てたまるか」と独りで身を固くしていました。

はじめに

日記を書くのに「はじめに」と書くのも変なものですが、この「クレ・サラ日記」の 基本的なスタンスを書いておこうと思います。
私はこの問題に関する書籍を4冊出版させていただきました。その中で、いろいろな意見を述 べてはいるのですが、専門書という性格上、言い回しが窮屈であったり、客観性を重んじるあまり 一種の遠慮が入ったりと、必ずしも直截な言葉で語らえておらず、また紙数の関係もあり、要約して 語ったり省略している部分もあります。
ですからこの日記では(本当は日記などというたいそうなものではなくメモ書き程度あるいは私の 備忘録と思ってください)私の感じたままを直截に述べようと思っています。
したがって日記の 内容に関して意見を闘わせたり、「君の考え方は間違っている」というご意見をいただいても 聞く耳は持たないこととします。
また、私のこの問題に対するスタンスは明確です。長い間この問題に関与してきて、当初曖昧模糊と していた私の認識も、多数の人々と会い多くの法的な処理を行うことによって、この問題の本質、素の ようなものが、はっきり見えるところまで到達しました。ではそれは何かと尋ねられると 言葉に詰まってしまうのが情けないですが、私がたどり着いた地点を説明するには、私がたどり着くまで要したのと同じ時間が多分必要でしょうし 筆力も必要でしょう。そうなれば不可能ということになってしまいます。
ただ次のようには言えると思います。「この問題を本当に理解するには、何らかの行動が必要であり、 多分書斎からは何も見えてこない」。そのようにいいながら、この拙い文章を公表しようというのですから、 完全な論理矛盾ではありますが、この日記は、これから被害者救済に立ち上がろうとする人々の理解の助けになればと思っております。
さて、これから日記を書き始めるわけですが、子供の頃から、「今年こそ日記をつけよう」と日記帳を買ってきて、 書くのはたいてい2頁で終わりという三日坊主にもならない私ですから、 早々に閉鎖ということになるかも知れません。
そのような時は「救済運動に忙しくて日記を 書く暇がないんだ」と是非、善意に解釈してください。
決して「またかー」などとは思わないように。